昭和四十八年 六月二十九日 朝の御理解


x御神訓 「一、 神は声もなし 形も見えず 疑わば限りなし
                  恐るべし 疑いを去れよ」

 信心をさせて頂いて、信心、いわゆる信ずる心と。勿論、神様を信ずる心なんですけれども。どこをどういう風に信じたらよいのか、どこをどういう風に頂いていったらよいのか。信心をすれば、もう良いことばかり続くというようなことではないですから。
 様々なことに出遭いますと、神様があるのだろうか、お働きを受けておるのであろうかと思うようなことに直面いたしますこともありますけども、それでも尚且つ、神様を、神様を信じて疑わずに進んで行くということ。
 いわゆる、井戸は清水になるまで。井戸は清水になるまで、しかもそれが尽きることなく。おかげが受けて行けれる場を願って信心させて頂かねばならん。尽きぬおかげとは、勿論限りなく、これはあの世までも尽きぬものである。後の世までも尽きぬ程のおかげである。そういうおかげを燃やさしてもろうて、信心をさしてもらわんと、その間に、いわゆる疑いが起きたり、迷いが起きたりして来るのです。
 昨日、竹葉会でした。で、久保山陽子さんが発表しておりましたが、先日からお夢を頂いた。
 zやっぱりこのお広前、お広前に入るまで、ずーっと両面ガラス張りの廊下を、長い長い廊下を通って行かねばならん。その廊下の両端に、もう名も知らない鳥が、様々な鳥がおって、まあ何と素晴らしいことだろうと言いながらそこを通っているところを頂いた。随分長いことそこを通らせて頂いて、最後にフクロウですね、コウズとも言います。フクロウがおる。そこの所から、明るいとか、美しいでなくて、何とはなしに薄暗い、じめじめとした、もう何とも言いようのないような、気持ちの悪いところを通らせて頂いた。ふと見ると、その両端に、もう大小様々な蛇が一杯おる。そこをまあ、恐々ながら通って行って向こうの所の正面の所に、大きな柱が二本立っておる。そこの大きな柱の所を通り抜けると、向こうが明うしておる。だからそこをどうでも通り抜けねばならん。大きな柱が立っておるのをふと見ると、なんとその柱が蛇で出来ておるといった感じ、もう沢山の、その柱には、小さい蛇が固まるようにして、柱に取りついておる。一方の柱には、大きな蛇が取りついておる。動いていないようであるからあれは死んどるのだろう。そして、連れて行っている純ちゃんが恐がるところを、「あれは作り物じゃから恐がることはいらんよ」と言うて、自分も怖いながらも、そう言って、純ちゃんが怖がるのを向こうへポーンと明るい方へ突きやっといて、そして自分もそこを通り抜けたところを頂いた。ところが、そこには明るい山になっておって、向こうから沢山の花売り娘さんといった感じの人達が花を持って、または花を伐って、それをみんなに分けておるところを頂いた。そして少し行くと、そこには一杯蕗が生きつながっておるというところを頂いた。蕗というのはつわ蕗なんです。それが一杯生い茂っているところで眼が覚めたとこういうのである。
 信心をさせて頂いて、ただよかことばっかりではない。ただ普通で言う、嬉しい有難いことばっかりではない。信心を分からせて頂けば頂く程、様々な修行も求められるし、また、お試しもあるし、その陽子さんのお夢の中に表れているように、それはもう絶対と言うて良いことは、なら本気で十日間なら十日間も、朝参りなら朝参りしたら、もう絶対、こげな有難い信心をどうして今まで頂かなかっただろうかと必ず言います、みんな。
 そこんところが、私は、あの小鳥の、鳥が両側に一杯おって、そこを抜け通りよるところじゃないだろうか。教えの有難い、こんな有難い御教えに触れて、そして自分の生き方を正そうというような気に、これから本当にこの信心をすれば幸せになれるぞと、希望が湧くところを必ず心が開けてくるんです。
 段々熱心に御教えを拝聴すればする程分かってくることは、メグリ、人間のメグリ、家のメグリと。その頃から神様が力を与えて下さろうとする働きが必ず始まる。その辺のところが夢の中で通ったという、どちらを見ても蛇ばかり、そこではないかと思う。だからそこん所をやはり、元気に一つ乗り越えて行くというおかげを頂かねばならん。
 最後の大きな柱に蛇が一杯群がっとる。じっとしとる。柱の方をよく見たら、本当に死んどるのかと思うたら、大きい方の柱のちいと大きな蛇が、鎌首をこう出してから、うようよ動きだした。もういよいよ後にも先にも退けんようなところを、それこそ、自分の子供は向こうの方さへ突きやっといて、自分もその道を通り抜けるというところ。
 それから、この、疑えば喜びの花開かず。信ずる心清ければ心に喜びの花が咲く。そこのところを私はまあ、がむしゃらにでも通り抜けるところから、本当の信心の喜び。信ずる心清ければ、心に喜びの花が咲く。そこに生神の姿を見ることが出来る。
 そして、蕗の山に入っておるということは、妙賀栄える富貴繁昌と言われるように、いよいよ富貴繁昌、繁昌の大みかげを、それは尽きることのない繁昌である。この世だけのことではない、あの世までも持って行かれる尽きぬおかげのことである。そういうおかげを頂くことの為に信心があるのですから…。
 やはり見易いことではない。けれども、疑えば限りなく疑われるのある。それを信ずれば、それを一切神愛と分からせてもらうことが出来る。神愛と分からせて頂けれる信心がです、出来る時には、もう、そこには本当は気持ちの悪さとか、または疑いとかいうものはない。
 おかげで、「やれ痛や、有難し今みかげをという心になれよ」と仰る。それこそメグリのお取り払いを頂いとりますという心で、私共に頂かして下さろうとすることの為に、まずは「疑いを去れよ」と教えて下さってあるんだと思うんです。
 尽きぬおかげの頂けれる、いわゆる富貴繁昌のおかげの頂けれるところまで、私は突き進む、どのような場合であっても、そこを通り抜けなければならん。通り抜けるということがです、表現が蛇とか、ジメジメとか、気持ちが悪いとか言うけれども、実際はそこんところをこそ、実は有難い、勿体ないで通らせて頂けれる。それが教えであります。
 教えを頂いて行くと、そこんところがいよいよ有難い勿体ないという生き方で、そこを通り抜けて行けれるのですけれども、教えを頂いとっても、本気でその教えを行じないところから、やはり気持ちが悪かったり、怖いと思うたり、疑いが起こったり、迷いが起こったりするのです。
 そこで、やはり、そこを頂きぬかせてもらうという信心の心がなからなければ、いわゆる真心からなからなければ、神心に達しない。
いわゆる、人間の世界におりながら、これが本当の人間の世界であろうかと思われるような、結構な、いわゆる極楽の世界を、そこに、自分の心にも、身にも感じることが出来るおかげを頂く。
 そういう意味でです、一つ、神様は「恐るべし疑いを去れよ」と、見方によれば、疑えば限りないことである。けれども、私が今日皆さんに、このような話を皆さんに聞いてもろうた。久保山さんが頂いているお夢というものが、ただの夢だと、信心の道すがらというものはこうゆうものだと。と言うて、それを本なことだろうかと言えばそれまでだと。
 そうだと信じて、どんなところを通らして頂いても、唯々疑いを去らして頂くために、「これはまだ私の信心が足りぬからだ」と、「一心の信心をして行けば、そこからおかげを受けられる」という、おかげの世界に出ることが出来る。
 お互いが、今、信心のどこを通っておるのであろうか、よく考えてみて、そこを一つ、せっかくなら元気な心で、有難く受けさして頂けれる信心、通らせて頂けれる信心を頂きたいものであります。
どうぞ。